story

もう一度だけ

もう立ち上がる気力もなかった。
全身が怠く、足は鉛のように重い。
もう自分はここから出られないのだと思い、涙が溢れた。
涙というのは流したいと思わなくても勝手に溢れ出てくるものらしい。
次々と零れてくるそれを何度も何度も両手で拭うが切りがなく、次第に目蓋や目の下がひりひりと痛んだ。
夢の中なのに痛覚があるなんて、まるで現実のようだと私は思った。
もしかしたら自由に動けるこちらが現実で、ご主人様やややがいる温かく幸せなあちらが夢だったのではないかと、そんな気さえしてくる。


「ややの元気な声が聴きたいな」


あの声を聴いたら、元気が出てもっと頑張れるかもしれない。


「ご主人様の大きな手で抱き上げてほしいな」


あの手で抱き起されれば、また走ることができるかもしれない。
私は涙を流しながら、頭上の漆黒を見上げた。
いつの間にか私の背まで闇が迫っていたのだ。
今にも私を取り込みそうな深い深い闇がそこにはある。
光も闇も変わらなく冷たく、無慈悲だと思った。
ご主人様やややを知ってしまった今、そこにある寂しさは私には耐えがたいものだった。


「私、また生まれる前みたいになっちゃうの・・・?」


光の中からご主人様に掬い上げられたばかりなのに、闇がそこまで来ている。
私は膝を抱えた。
今あるこの体だけは手放したくない。


「ご主人様・・・ゆうみはもう、だめです・・・」


頭の先から私を飲み込む闇に、されるがまま私は目を閉じようとしたその時だった。


「ゆうみ」


懐かしい声だった。
低く、胸の奥を震わせるようなその声は忘れもしない。
私が心に深く、強く思う人。ご主人様の声だ。
私は声がする方を見る。
そこにはあの意地悪な光が、闇の中でも変わらぬ眩さで煌々と輝いていた。


「ご主人様・・・?」


私は涙で滲んだ視界を拭った。


「ゆうみ」


私の聞き間違えかとも思ったが、その光からは確かにご主人様の声がする。
その光がご主人様なのかと思ったが、その声はその光の中の方から漏れ出ているようだ。
やはりこれは現実へと繋がっているのだと、私は確信した。
だが、どうやっても捕まえることのできないこの光をどうしろと言うのだろう。
私はもう一度手を伸ばしてみたが、やはりそれには届かないのだ。
そんなことはお構いなしにそれは私を呼ぶ。
まるで、現実に帰って来いと言うように。


「もう一度だけ」


その声に答えるように私は立ち上がった。
手を伸ばしても駆けても届かないならと、飛び込むようにして光の中へと身を投げ入れる。
がしゃんとまるで薄いガラスが割れるような音を立てて、世界が崩れる。
その衝撃に私は反射的に瞳を閉じた。
数秒で音は消え、鳥の鳴く声に私が目を開けるとそこには気持ちよさそうに寝息を立てるご主人様の顔があった。

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