story

おやすみなさい

ここは無難に、よく聞こえなかったということにしておこうか。
丁度ご主人様が荷物をテーブルに乗せた音に被ってしまっていたし、その時私はそっちを見ていたし。


「ごめん、よく聞こえな・・・」


私が作り笑いを浮かべてそう言った時だった。
向かいに居るややの身体が、いつの間にか背後にいたご主人様に両脇から持ち上げられてすっと宙に浮く。
短い着物の裾から伸びた白い足が座椅子とテーブルの間を器用にすり抜け全貌が見えると、ご主人様はくの字に曲がった彼女の胴体を真っ直ぐに正した。
そしてそのまま彼女と向かい合い肩に立て掛ける様にして抱えると、私に向って「おやすみ、ゆうみ」といいくるりと背を向けた。
ご主人様が背を向けると、抱えられたややと目が合う。


「ゆうみちゃん、おやすみー!」


ややはまるで何事もなかったかのようににっこり笑うと、私から少しずつ離れていった。
と言ってもほんの数歩の距離だが。
ご主人様が進んだのは寝室とは別の、廊下の方向だ。
廊下に繋がる扉の横の壁、そこにここの電気のスイッチがあるのだ。
それを押すのを見るのはご主人様がお仕事から帰宅して電気を点ける時とご主人様の寝室に一緒に行く時にリビングの電気を消すくらいだから、この定位置からこうして電気を消す瞬間を見るのはなんだか新鮮だった。
ひとりで眠る日は、先に私たちの寝室に入るから。
ご主人様がスイッチを押すと、ピッと音がして徐々に電気が弱くなり、やがて真っ暗になった。
暗闇の中、足音が数回。
それがぴたりと止まり、鈍い音を立ててドアが開く。


「おやすみなさい」


私はまだそこに居るであろう二人に向かって言った。
一瞬、ご主人様の寝室の白い壁が見えた気がした。
窓から漏れた月明かりに照らされて見えたのだろう。
ご主人様の寝室は、朝日の光で目がきちんと覚めるようにと薄いカーテンを使っている。
だから夜は外の月明かりが覗いて、白い壁がぼんやりと薄藍に見える。
ドアが閉まるとリビングはすっかり暗闇に染まった。


(普通、逆だよね)


リビングのカーテンは光を通さない厚い布のカーテンなのだ。
もしかして、しっかりしたカーテンを買って使ってみたけれど、落ち着かなかったり真っ暗で起きにくかったから交換したのだろうか。
こちらのカーテンの方が新しいように見えるから、その可能性はあると思う。


(逆だったら良かったのにな)


こう真っ暗だと、なんとなく不安になってくる。
どこを見ても真っ暗で、まるで私ごと闇に溶けてしまったみたいだ。
私たちの寝室も薄明かりが差してほんのりと明るいから、一人でもこんな気持ちになることはない。
それでもだんだんと目が慣れてきて、ぼんやりと物の輪郭がわかるようになってきた。

前の記事へ          次の記事へ

PAGE TOP